服部文祥「サバイバル!」の思想2008-11-07 23:59

ロードバイクで峠を上っているとき、自分の身体が撓(しな)るような軋(きし)むような感覚を味わう。自分の身体がロードバイクというシンプルな道具を通じて道を、そして距離を感じていく。おそらく健康のためとか減量のためとかという欲求ではなく、乗ることが楽しいというのがロードバイクのもつ感覚ではないか。 だがロードバイクはアスファルトという、第1義に自動車のために造られた道路を走るしかない。

サバイバル登山家
この鮮烈な表紙で話題を呼んだ「サバイバル登山家」の続編が発刊された。

サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書 751)
サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか

「サバイバル登山家」については以前ブログでも「サバイバル登山家」と欲望資本主義という記事を書いている。

続編とも言うべきこの本では、登山道・山小屋をひたすら避け、日本海から上高地へ道なき沢を遡行していく北アルプス単独縦断記、そしてサバイバル登山の方法論が詳細に書かれている。とくに「第4章サバイバル思想」は著者の現時点での到達点であり刺激的な文章に満ちあふれている。

著者の主張にすべて賛同するわけではないが、高みのみを目指し、山小屋でも街と同じような快適さを求め、集団で山歩きするようなスタイルに私はなじめない。もちろん著者のようなハードな山域・登山をすることは体力的に不可能だ。サバイバル登山を制するのは結局体力だろう。

著者はフリークライミングの思想からサバイバル登山へと行き着いた理由として
「道具と人間のどちらがボスなのかわからないこの世界で、もう一度まっさらな自分を取り戻す。自分の肉体と山との間に挟まっている物質を取り除いていくことで、人は登るという行為に近づき、自分の肉体に戻っていったのだ」(同書245頁)と書く。

なんて魅力的な言葉だろう。街や組織で生きていくということは何か薄汚れたような水を飲み続けているような感覚がある。効率や人間らしさなどという妙な物差しで測定され、そして自らも測定していく。

できれば軋みつつ撓りつつロードバイクに乗ったり、山歩きをしてみたい。そのとき薄汚れた水ばかり飲んでいる身体がすこし目覚めるかもしれない。


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