断片的なもの2019-11-07 12:50

「独りを慎む」生活に沈殿していたら、11月になった。そして秋晴れが続いている。

静かに生活しているのでとくに変化はない、ロードバイクで散歩したり読書したり、義父の介護や孫の子守をしたり。

最近は岸政彦氏の著作を連続して読んでいる。
断片的なものの社会学
「断片的なもの」は都市生活のキーポイントになるんじゃないかな。

「質的社会調査の方法」というのは、いっとき流行した欲望主義や体験主義にもとづく俗流社会学よりは腑に落ちるところが多い。

だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に膨大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。

「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」(同書38頁)



私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びに来てくれない。
「ユッカに流れる時間」(同書134頁)



「だが、いつも私の頭の片隅にあるのは、私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるかもしれない、ということだ。」
「自分を差し出す」(同書200頁)


「断片的な人生」を生きざるを得ないだけに、人を求めていくものがあるかもしれない。

はじめての沖縄 (よりみちパン! セ)
沖縄的なものを牧歌的に捉えるのは違うだろうな。二者択一論でない曖昧さをいったん受け入れることだろうか、それはなべてのアプローチにいえることかもしれない。
隠居生活していると地上波のTVに出てくるコメンテーターの醜悪さにうんざりする、だからいっさいそのような番組は見ないことにしている、時間の究極の無駄だから。


雨宮まみ氏をこの対談集で知った。
欲望と身体性は比例するのだろう、だから老人になれば欲望と身体性をシフトダウンさせていくのがよいだろう。「速く長く強く」ではなく「ゆっくりと短く弱く」、身体性を馴染ませていくしかない、そこから老人なりの無惨でない欲望のあり方があるかもしれない。40代に10年間、単独行で山歩きを続け、50代10年間ロードバイクに乗り続け、順当に年老いていく自分の生き方かもしれないな。

大阪をジョギングしたり、ウォーキングしたりする参考本。
歩いてめぐる大阪本 (エルマガMOOK)

「神戸や西宮や尼崎の友だちはみんな、阪急は阪神やJRで淀川を越えると、ああ大阪に来たと思うのだと言う。なぜかその橋で、気合いが入ると。大阪に来るには、気合いが居る。」
「誰も大阪を知らない 岸政彦」


ほんまこの気分はわかるわ、でも次男がコテコテの大阪女子と結婚して、コテコテの大阪市内に住んでいるので、かなり近しい存在に大阪がなっているね。



ブックオフで川本三郎氏の本を購入。
都市の感受性 (ちくま文庫)
1984年の刊行の本の文庫版、文体が若々しい。文体と年齢はどうしても作用するんじゃないかな、村上春樹の本も初期・中期の作品がおもしろくて、最近の長編はどうも間延びした感じがする。

「村上春樹の作品を読んでもし「感動」があるとすれば、全体的世界をイメージしえたからではなく、日常の断片が喚起する気分を共有できたからである。気分は断片のなかに、断片と断片の余白のなかにころがっている。それは都市生活者の日常がチャンネルの操作ひとつで次々とことなったイメージを生みだしては消費し拡散していくテレビの画像のように無意味でとらえどころのないことの反映でもある。」
「1980年のノンジェネレーション」

統一性を求めてギスギスするよりは曖昧なもの断片的なものを、受け入れていくのがいいかも。


秋晴れ、橘曙覧の「独楽吟」の二句が近しい気分だ。

たのしみは 空暖(あたた)かに うち晴(は)れし 春秋(はるあき)の日に 出(い)でありく時

たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中(うち)に 我とひとしき 人をみし時



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