学ぶことは真似ること ― 2006-12-26 23:41
今日は友人のIくんとミニ忘年会。
すっきり飲んで岡本で別れてひとり電車に乗っていると、ふと昔のことを思い出した。
大学の頃、古書店でO助教授の社会学の本に出会った。その本の初版は1969年。私がその本を手に取ったのは1975年。じぶんの置かれている立場や悩み、それは抽象的な悩みであったが、切実な悩みでもあった。抽象的な悩みだから贅沢なんだとは今となっても言いたくはない。
O先生の論理は、まさしく染み入るように私の心に入ってきた。
自分の中で曖昧模糊として論理化できていなかったものを「こんな考えもあるよ」と差し出してもらった感覚。その後、下宿の部屋でO先生の本を読み漁り、ある日O先生に自分の稚拙な考えを書いた手紙を送った。
しばらくしてO先生から返事が届いた。丁寧に自説への疑問点を回答していただき、「東京に来られたら(O先生の)私的ゼミに飛び入り参加自由ですよ」と末尾にしたためられていた。
O先生と一度お会いしたかったので、東京に出向き、私的ゼミに参加させていただいた。
他大学の私をO先生は「友あり遠方より来たる、また楽しからずや。アンパン食べましょ」とおっしゃって、アンパンをほお張りながらO先生のゼミに参加させていただいた。
東京に泊まった後、各駅停車で日本海に出て金沢に立ち寄り、関西に帰ってきた。
時間は十分にあり、私は孤独であったけど自由であった。
O先生は当時40歳を越えた頃であり、私も23歳であった。
私はその後会社員として、若い頃の悩みなどなかったかのように生きてきた。
O先生のような学究の徒にはなることができなかった。
しかし日々生きていく上で、じぶんの中に基準というものがあるならば、それは稚拙であろうと不器用であろうと私というものを形作ったO先生との時代を思い出す。
ふと今年亡くなった敬愛するK先輩のとO先生が重なって見えてきた。
お二人とも雰囲気がとても似ているのだ。
K先輩とお会いしたとき感じた既視感は、これだったのかもしれない。
「学ぶということは善きものを真似ることなんだ」という思いがいつもある。
少しほろ酔いで、書きました。
すっきり飲んで岡本で別れてひとり電車に乗っていると、ふと昔のことを思い出した。
大学の頃、古書店でO助教授の社会学の本に出会った。その本の初版は1969年。私がその本を手に取ったのは1975年。じぶんの置かれている立場や悩み、それは抽象的な悩みであったが、切実な悩みでもあった。抽象的な悩みだから贅沢なんだとは今となっても言いたくはない。
O先生の論理は、まさしく染み入るように私の心に入ってきた。
自分の中で曖昧模糊として論理化できていなかったものを「こんな考えもあるよ」と差し出してもらった感覚。その後、下宿の部屋でO先生の本を読み漁り、ある日O先生に自分の稚拙な考えを書いた手紙を送った。
しばらくしてO先生から返事が届いた。丁寧に自説への疑問点を回答していただき、「東京に来られたら(O先生の)私的ゼミに飛び入り参加自由ですよ」と末尾にしたためられていた。
O先生と一度お会いしたかったので、東京に出向き、私的ゼミに参加させていただいた。
他大学の私をO先生は「友あり遠方より来たる、また楽しからずや。アンパン食べましょ」とおっしゃって、アンパンをほお張りながらO先生のゼミに参加させていただいた。
東京に泊まった後、各駅停車で日本海に出て金沢に立ち寄り、関西に帰ってきた。
時間は十分にあり、私は孤独であったけど自由であった。
O先生は当時40歳を越えた頃であり、私も23歳であった。
私はその後会社員として、若い頃の悩みなどなかったかのように生きてきた。
O先生のような学究の徒にはなることができなかった。
しかし日々生きていく上で、じぶんの中に基準というものがあるならば、それは稚拙であろうと不器用であろうと私というものを形作ったO先生との時代を思い出す。
ふと今年亡くなった敬愛するK先輩のとO先生が重なって見えてきた。
お二人とも雰囲気がとても似ているのだ。
K先輩とお会いしたとき感じた既視感は、これだったのかもしれない。
「学ぶということは善きものを真似ることなんだ」という思いがいつもある。
少しほろ酔いで、書きました。
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