会社のパソコンとグルグルまわるFirefoxアイコン ― 2006-03-11 18:24
昨夜、金曜日は友人と居酒屋で痛飲。ボトルキープした焼酎を、あっという間に半分ほど飲んでしまう始末。
居酒屋を出て、駅につくと、残業帰りの同僚と遭遇。繁忙期なので、すこしバツの悪い思いをする。
今日は、愛機ThinkPad X20・21のメンテナンス。最近、SUSE Linux 10.0を使うことが多いので、VineLinux3.2 on TP X20を起動しないことがある。
ThinkPad X21は、キーボードがとても打ちやすい。軽いタッチでタイピングすることができる。
X24は、キーボードのタッチが軽すぎるように感じるがどうだろう。わたしの錯覚だけだろうか。
なんかペチャペチャしたキータッチなんだけど。
いま職場では、SOTECのWL2130を仕事用パソコンとして使っている。会社から仕事用のパソコンが支給されなかったので、3年前に自前で購入したものだ。しかし、このパソコンを管理しようという動きがあるらしい。
最近のWinnyによる情報流出やUSBメモリーによる情報紛失を、会社としては恐れているらしい。
もっともなことだと思う。
だが、私の仕事用パソコンは自費で購入したものだし、バックアップ用のUSBメモリーも同様だ。会社のイントラネットにも接続していない。情報の流出が、責任問題になることは十分理解しているし、細心の注意を払っている。
にもかわからず、一律管理ということで、USBメモリーの保管やHDDの中身まで詮索してくる有様。
仕事用パソコンはゲーム類や不要なソフトをすべて削除し、Windowsが30秒ほどで起ちあがるように設定してある。一太郎+Excel+付箋紙+LotusOrganiserを常時起動して、書類作成やスケジュール管理を行っている。
いまの仕事用パソコンで遊ぶことはできないし、遊ぶ時間もない。
4月に、職場を異動したら、仕事用パソコン、HDDをフォーマットしないと「機密保持」に反するのかなぁ(苦笑)。
まぁ、その場合はWL2130にLinuxをインストールするつもりだ。
ちなみにグルグルまわるFirefoxアイコン、この記事を読んで、つけてみたかっただけです。
南木佳士「急な青空」を読む ― 2006-03-11 22:09
南木佳士さんの小説をいくつか読んでいるが、どちらかというと彼のエッセイの方が好きだ。
芥川賞作家であり、勤務医でもある南木佳士さんは、終末医療に従事する中でパニック障害、そして鬱病を発病する。自死衝動に駆られ、生きるエネルギーが低下していく日々。
そうした40代の終わりから、いくらか回復していく50代の始まりに書かれたエッセイ集。
言葉は選び取られたものであり、そして、山歩きをしていくなかで次第に身体の回復も兆していることがわかるエッセイだ。
神社にたたずむとき、彼はこう思う。
「神がいると思っているのではなく、神の存在を信じ、石段の角を丸く磨り減らすほど頻繁にこの神社に詣でた中世から今日に至るまでの何千、何万の凡夫の一員となることに、なんとも言えない安心感を覚えるのだ。」(同書14頁)
私も最近、山や奈良を歩くとき、歴史の中のちっぽけな自分というものを感じる。とくに「なにも願わない、じっと手を合わせる」(藤原新也)ということが好きになった。
またなぜ小説を書くかということに対し、南木さんはこう書く。
「なぜそんなに小説を書きたいのか。その理由は、逆説的に聞こえるかもしれないが、小説のなかで遊べるからだ。
私の場合、医者としての言葉には遊びがほとんどない。患者さんへの説明を家族がメモするという状況下では、遊びなど生まれようもない。そこには「私」の存在は不要で、最新の治療に関するデータがあればいい。私はそれを肉声で伝える伝言係にすぎないと感じることさえある。」(同書74頁)
医者でなくとも、仕事とは日常というものはそういうものかもしれない。南木佳士さんのような作家でなくとも、我田引水だが、ブログを書く人々は「伝言係」の自分に倦んでいる部分があるのではないか。
群馬の寒村に育ち、3歳の時、母と死別。祖母に育てられ、第1志望の国立大学医学部受験に失敗、秋田大学医学部に不本意ながら入学した青春時代、そして壮年期を経て、鬱病に苦しむ中年時代。
南木佳士さんのエッセイに、深みがあるのは、単に文章がうまいだけではないのだろう。作家の片手間のエッセイ集ではない。
曇天の中、黙々と山を登り始めると、いつのまにか霧は晴れ、雲海を見下ろして「急な青空」が広がる。
良質なエッセイです。
携帯メールを打つ時間(山と携帯) ― 2006-03-12 16:59
今日は、関西地方は曇天。すこし肌寒い。
ThinkPad X21に向かって、Linuxの設定などをしていると、携帯にメール着信。
メールを読むと、女友達からの「熱海にいます、お鮨が美味しい!」とのメール。
彼女は、大学時代の友人たちとミニ同窓会を熱海でしているようだ。
羨ましい。
わたしは山登りしたり、旅に出かけると、なぜか無性に携帯メールをしたくなる。
初めて琵琶湖・比良山系でテント泊したとき、比良山系の烏谷山(からとやま)にテントを張った。
私のテントだけで占めてしまうような、烏谷山の狭い頂上で夜を明かした。烏谷山の頂上は、低い灌木しかなく、琵琶湖を見渡すことができる。
闇がテントのまわりを包みはじめると、テントの背後にある森から風がテントの方に吹きつけ始め、そして初めて聞く動物の鳴き声、樹々のざわめき。森の夜は、意外と騒々しいのだ。眠れずに、琵琶湖を眺めると対岸で花火が打ち上げられている。対岸では、花火大会が開催されているようだ。点に近いような遠景の花火を眺めながら、私はひたすら友人たちに携帯メールを打った(烏谷山は稜線にあり、携帯が通じた)。ひととおり、メール送信・受信して深夜になると、さすがにメールも送信するのがはばかれる時間だ。夜中の3時頃、やっとテントの中で短い眠りにつくことができた。
芦生の森などでテント泊するようになって、森でひとりテント泊することに恐怖感を感じることはなくなった。そして、芦生の森では、携帯も通じない。
烏谷山を経て、比良を縦走して街に下りてきたとき、友人たちから「山に入っているのに、メールばかり送ってきた」と笑われる始末。
しかし、携帯メールは、単なる時間つぶしや連絡手段のみの機能をもっているわけではないのかも。
山から下りてきて、あるいは、旅に出て日常と違った感覚を味わったとき、ふっと携帯に手が伸びる。独り言ではない、なにか伝えたいモノをメールに打つ。
そのメールを打っている時間は、伝えたいモノとその相手のことだけを考えている。
そのひとの表情とか口調とかを思い出しながら、メールを打っている。
だから、旅先から携帯メールを受信すると、ほっこりとした気分になる。
携帯メールを打つわずかの時間とはいえ、その人はわたしのことを、心のすこしの部分に置いてくれたのだから。
ということで、お友達の皆さん、私が山から、旅先から、あるいは酔っぱらってメールを送信しても邪険にしないでくださいね。
芦生の森(3)テントの重さの分だけ自由が ― 2006-03-13 23:56
トレッキングにテントを持参すると、その分、自由度がアップする。
適当な幕営地さえあれば、自分の好きな時間にテントを張れ、森でのんびり過ごすことができる。まさしく「テントの重さの分だけ自由がある」。
私が現在使っているテントは、エアライズ2。いちおう二人でも、十分寝ることができる。
単独行なのに、二人用テントを用意しているのは、森で寝るときテントがじぶんのベースとなるからだ。登山靴を脱ぎ、テントに潜り込む。電子蚊取り器・懐中電灯の中、ホットウイスキーを飲む。
テントは、雷雨、虫、そして森の闇から私を守ってくれる。
テントを初めて購入したとき、うれしさのあまり、自分の部屋でテントを張りひと晩を過ごした。
家族からは、「家でテントを張って寝るなんて」と呆れられたが。
もちろん、森でテントを張る前に、異状がないかチェックするという意味もあったのだが。
エアライズ2は、友人たちと行った氷ノ山キャンプでフレームが一部破損し、フレームのみを買い換えた。現在も、森に潜るときの必需品だ。
村上春樹が忌避したもの ― 2006-03-14 01:50
内田樹教授のブログで、「村上春樹恐怖症」というエントリーを読む。
村上春樹の自筆原稿を編集者の安原顯氏が、勝手に古書店に売却したことが問題となっている。
で、さっそく文藝春秋2006年4月号「ある編集者の生と死ー安原顯氏のこと」を読んだ。
安原顯氏の評論は、すこし読んだことがある。率直な感想は、「なぜここまで尊大にふるまうのか、偽悪家ぶるのか」ということ。だ・か・ら、そんなにその作品を気に入らなければ、じぶんで小説を書けばいいじゃんという素朴な思いが、この編集者にはいつも感じられた。
村上春樹がこの記事で書いている「陰で他人の悪口をいう」編集者の存在など、べつに文芸業界だけでなく、どこの組織でも(我が会社でも)普通のことだ。安原顯氏は、陰で他人の悪口を言わない編集者だったと村上春樹も認めている。
しかし、村上春樹自身は、「本当のことを言えば、サラリーマン編集者でもなく、また乱暴な一匹オオカミ編集者でもない、有能な専門職として機能する編集者が日本にもそろそろ生まれて然るべきだと考えているのだが、」という(同書273頁)。
僭越ながら、私が、安原顯氏の評論を読んで違和感を感じたのは、小説家になれなかった挫折感みたいなモノをこの人からは感じられたためかもしれない。負のエネルギーで生きているような。村上春樹自身、安原顯氏の「手のひらを返したような批判」が始める直前に「そこには素手で蛇を触ったときのような、不吉な感触があった」(同書270頁)と、痛烈な表現をしている。
今回の、村上春樹が問題にしているメインは、自筆原稿が古書店などに勝手に流出したこと、つまり「「盗掘」という言葉はあるが、まだ生きている人間の墓を暴くことをいったいなんと表現すればいいのだろう?」(同書274頁)という事態なのだろう。
今回の、村上春樹の記事を読みながら、彼のある小説を思い出した。
「象の消滅」に収められている「沈黙」という作品。
この短編小説は、この短編集のなかで特に印象に残る小説だった。
ボクシングジムに通う31歳の青年。彼が、同僚にボクシングに絡めながら、人間の底恐ろしさを語り始める小説だ。青年は、中高一貫の進学校(男子校)に過ごした日々を回想する。その中で、彼は、青木という勉強もでき、周囲(同級生・教師)からも人望のある同級生からいわれもない敵対心を持たれてしまう。
中学の時、彼は激情に駆られて青木を殴ってしまう。そして、青木はそのことを根に持ち、高校3年のときに起こった同級生の自殺を彼の暴力によるものだという噂を巧妙に流す。
彼は、ひどく落ち込むが、青木という存在自体を人間の悪意の象徴と見なして、生きる力を回復する。
その作品の結末のほうで、彼は、こういう。
「僕が怖いのは青木のような人間ではありません。ああいう人間はおそらくどこにだっているのです。僕はそういう人間の存在についてはもうあきらめていますー中略ー
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の話を無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。ー以下、略ー」(象の消滅400頁)
今回の文藝春秋では、村上春樹は、「スーパー編集者(エディター)」と自ら名乗っていた安原顯氏について、
「世間の一部はそれを「辛口批評」としてもてはやしたが、話はそれほど単純明快なものではない。僕は彼自身に対してというより、むしろ彼を後ろから焚きつけて、騒ぎを他人事のように楽しんでいた人々に対して、より強い不快感を感じてしまうわけだが。」と表現している(同書268頁)。
なにやら似たような表現になっていると思うのは、私の思いこみかもしれないが。
「沈黙」という短編が印象深い作品だったので、今回の文藝春秋の記事と、つい重ね合わせてしまう。
今回の事態は、著作権という法的権利が絡んでいるので、生のノンフィクションという形を村上春樹はとったのだろう。
だが、やはり村上春樹には小説という形式で、表現して欲しかったなぁという思いもある。
新潮社 (2005/03/31)
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何回読んでも楽しい
物語の持つ力。
仕事でFA宣言 ― 2006-03-16 11:17
昨日は、会社の異動公募の面接。わが社では、ミニFA宣言のような制度がある。希望の部署にエントリーすることができる。4人の面接官の前で、志望の動機・抱負などをプレゼンテーションするわけです。
ひさしぶりに受験生になったような感覚でした。
面接の際、「某システム事業の仕事をなぜ申し込まなかったんですか?」と聞かれた。某システムについては、興味をもっていたが、コンピュータはあくまでもわたしの遊び道具。仕事とリンクさせるのに、ためらいがあった。じぶんの
世界を大切にしたいというわがままな感情なんだろう。
考えるところがあって、このミニFA宣言制度を利用したわけだが、よかったかどうかは微妙なところ。だが、いまの膠着した仕事環境を変えることにはなるだろう。
はてなの近藤淳也さんが書いた「へんな会社のつくり方」を読むと、はてなにスタッフを採用する際、その人のブログを読んで決めることがあると書かれていた。技術的なスタッフの採用などには、この「ブログを読んで採用」という方法も有効なんだろうなあ。でも、わたしのような事務系サラリーマンには、当てはまらないだろうし、このブログ自体がめちゃ趣味的ですもんね。
面接を終えて、各職場の女友達にバレンタインチョコのお返しをする。
酢橘(すだち)のドレッシングなどという、奇妙なものを一日遅れのホワイトデーにする。
夕方、旧知の友人とタイ料理の店へ。
友人はスキューバーが趣味なので、タイの島にもよく潜りにいっている。タイ料理にも精通しているので、メニューは友人におまかせ。
すこし辛めのタイ料理を頬ばりながら、ビールを飲む。頻繁に会う友人ではないが、なぜか節目ごとに会って、近況を報告しあう。とりとめもなく話をしながらも、「あーっ、こいつオモロイ奴やなぁ」と思う。口永良部島(くちのえらぶじま)に、いつか一緒に行こう!などと、話が脱線していく。
ビールをかなり飲んだので、昨夜は熟睡。
今日は、お休みを入れてまったりとブログを書いている。
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