村上春樹「ノルウェイの森」を読む ― 2007-09-15 11:01
関西地方は残暑が厳しい。静かな土曜日の始まりだ。
村上春樹「ノルウェイの森」を読了。
37歳の僕(ワタナベくん)が大学生活を振り返るシーンから始まる。
ワタナベくんは親友のキズキの自死によって「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」という諦観を持つ。キズキ・直子(キズキの恋人)・ワタナベというトライアングル(死んだ者も生者の中で生きるのだ)の中で、ワタナベは直子を愛するようになるが、彼女は死の方に惹かれ心を病んでいく。
いっぽう大学の同窓である緑は死を受け止め、それに圧倒されない強い女性として描かれている。我々の生に潜んでいる死の影に翻弄されることを拒否する強さだ。
「ノルウェイの森」が多くの読者の支持を得たのは,ある者はワタナベに、ある者は直子・緑に自分の姿を投射することができたからだろう。
ワタナベくんは、療養のため京都の療養所(といってもそれはコミューンのような異土だ)に入った直子に時には会いに行き、そしてひたすら手紙を書く。直子と同室のレイコさん(彼女もおなじく死に魅せられた病む人だ)との交流も始まる。
一方、同窓の緑の力強い愛情表現にも惹かれていく。
うむ、やれやれ(ワタナベくんのマネ)、こんなあらすじはどうでもいいだろう。
おもいっきり自分に引き寄せて書いてみよう。
村上春樹のこの小説に私は切ないほど惹かれた。それは甘い感傷じゃないだろう。私は泣かない大人だ。私が惹かれたのは,私の中にあらかじめ喪われたものへの諦観と苛立ちが存在することを、この小説は明らかにさせるからだ。
直子は結局自死し、ワタナベくんは海辺をさまよう。現実は茫洋とし生者と死者の彼我は明瞭ではなくなる。だがワタナベくんはあらゆるものに「あらかじめ喪われていた」のだろうか。
若い頃この本を読んだら、そう思ったかもしれない。
でも、いまこう思う,
あらかじめ喪われているものなどないのだと。
私たちは喪うべくして喪うのだ。
うかうかとして失い
ぞんざいにして喪い
大切なもの、人だと気づかずに喪い
じぶんの心にも気づかずに喪い
日々の細胞が新陳代謝を繰り返していくように昨日を昔日を忘却していく。
村上春樹がこの頃の作品で提示するメッセージは意外とシンプルなのではないか。
・日々の残酷さはまわりだけではなく、あなた自身から発するものもある。
・だからこそ,きちんと生きましょう。疲れていても歯を磨き髭を剃ろう。
・哀しみを哀しみとして受け止め、汗のようにボロボロと涙を流そう。
・好きな人とはきちんとSexしましょう。それが希望と落胆と生と死を含むものとしても。
ワタナベくんと同じ寮に住む東大法学部生の永沢という男が対極的に描かれている。
かれはシステマチックに生きることを命題化し、哀しみから遠いところにいようとする魅力的な人物だ。死後30年を経ていない作家の本を原則として手に取ろうとせず,「『グレート・ギャッビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」という男だ。
だが彼はシステマチックに生きるという命題を貫いて、恋人のハツミさんを喪う。システマチックであることが、完全な生をもたらすわけじゃない。
村上春樹のこの頃の作品や短編集を読むと、いつも森に静かに降る雨をイメージしてしまう。一粒は目をこらして見なければならないのに、全体としては覆い被さるように降り続ける雨のイメージだ。樹木の葉を濡らし幹を濡らし、そして雨は地中深く流れ込んでいく。
しばらく本棚にある村上春樹の本を再読してみよう。
そしてきちんと生きること、森でテント泊することなどを妄想していこう。
村上春樹「ノルウェイの森」を読了。
37歳の僕(ワタナベくん)が大学生活を振り返るシーンから始まる。
ワタナベくんは親友のキズキの自死によって「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」という諦観を持つ。キズキ・直子(キズキの恋人)・ワタナベというトライアングル(死んだ者も生者の中で生きるのだ)の中で、ワタナベは直子を愛するようになるが、彼女は死の方に惹かれ心を病んでいく。
いっぽう大学の同窓である緑は死を受け止め、それに圧倒されない強い女性として描かれている。我々の生に潜んでいる死の影に翻弄されることを拒否する強さだ。
「ノルウェイの森」が多くの読者の支持を得たのは,ある者はワタナベに、ある者は直子・緑に自分の姿を投射することができたからだろう。
ワタナベくんは、療養のため京都の療養所(といってもそれはコミューンのような異土だ)に入った直子に時には会いに行き、そしてひたすら手紙を書く。直子と同室のレイコさん(彼女もおなじく死に魅せられた病む人だ)との交流も始まる。
一方、同窓の緑の力強い愛情表現にも惹かれていく。
うむ、やれやれ(ワタナベくんのマネ)、こんなあらすじはどうでもいいだろう。
おもいっきり自分に引き寄せて書いてみよう。
村上春樹のこの小説に私は切ないほど惹かれた。それは甘い感傷じゃないだろう。私は泣かない大人だ。私が惹かれたのは,私の中にあらかじめ喪われたものへの諦観と苛立ちが存在することを、この小説は明らかにさせるからだ。
直子は結局自死し、ワタナベくんは海辺をさまよう。現実は茫洋とし生者と死者の彼我は明瞭ではなくなる。だがワタナベくんはあらゆるものに「あらかじめ喪われていた」のだろうか。
若い頃この本を読んだら、そう思ったかもしれない。
でも、いまこう思う,
あらかじめ喪われているものなどないのだと。
私たちは喪うべくして喪うのだ。
うかうかとして失い
ぞんざいにして喪い
大切なもの、人だと気づかずに喪い
じぶんの心にも気づかずに喪い
日々の細胞が新陳代謝を繰り返していくように昨日を昔日を忘却していく。
村上春樹がこの頃の作品で提示するメッセージは意外とシンプルなのではないか。
・日々の残酷さはまわりだけではなく、あなた自身から発するものもある。
・だからこそ,きちんと生きましょう。疲れていても歯を磨き髭を剃ろう。
・哀しみを哀しみとして受け止め、汗のようにボロボロと涙を流そう。
・好きな人とはきちんとSexしましょう。それが希望と落胆と生と死を含むものとしても。
ワタナベくんと同じ寮に住む東大法学部生の永沢という男が対極的に描かれている。
かれはシステマチックに生きることを命題化し、哀しみから遠いところにいようとする魅力的な人物だ。死後30年を経ていない作家の本を原則として手に取ろうとせず,「『グレート・ギャッビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」という男だ。
だが彼はシステマチックに生きるという命題を貫いて、恋人のハツミさんを喪う。システマチックであることが、完全な生をもたらすわけじゃない。
村上春樹のこの頃の作品や短編集を読むと、いつも森に静かに降る雨をイメージしてしまう。一粒は目をこらして見なければならないのに、全体としては覆い被さるように降り続ける雨のイメージだ。樹木の葉を濡らし幹を濡らし、そして雨は地中深く流れ込んでいく。
しばらく本棚にある村上春樹の本を再読してみよう。
そしてきちんと生きること、森でテント泊することなどを妄想していこう。
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