村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を読む ― 2007-10-16 22:11
村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を読了。
フルマラソンってハードなスポーツ。とても私は走ることはできない。マラソンランナーに喫煙者がいないのは、そのハードさに心肺機能が悲鳴を上げるからだろう。
村上春樹は「走る意味」について次のようにいう。
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僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的に空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。(同書32頁)
僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝は知ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。(同書113頁)
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村上春樹は職業的小説家として、私小説を排し、ダダイスト的な作家像を排し、才能だけに依存することを排してきた作家だといえるのではないか。だからこそ、彼の次の発言には深く同意することができる。
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しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に抵抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。(同書133頁)
真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ(同書135頁)
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そしてあらゆる身体性は、その人の傾向と合致することがあるのではないか。
村上春樹のような大作家でない我々凡人も、その点では彼我はないと思う。
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個人的で、頑固で、協調性を欠き、しばしば身勝手で、それでも自らを常に疑い、苦しいことがあってもそこになんとかおかしみをーあるいはおかしみに似たものをー見いだそうとする、僕のネイチャーである(同書204頁)
結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。(同書231頁)
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村上春樹が身体性と小説について語ることはもうないかもしれないなと、この本を読みながら思った。もう個人史として語り尽くしているようにも思える。
仕事が忙しくなり、来週からは残業が多くなりそうだ。
ロードバイクに乗ったり、山歩き(高島トレイルに興味をもっている)をして「空白の時間」をとっていきたいものだ。
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