星野博美「銭湯の女神」を読む ― 2007-03-27 01:15
星野博美さんの文体をなぜ好きなんだろう。
彼女の師匠である橋口譲二の文体は「時代を背負ったような」感がする。
いっぽう星野さんの文体は「時代と沿っているような」感がする。
表題にもなっている「銭湯」を話題にした一群の文章が秀逸だ。
私たちは、もう人前であまり裸にはならない。
野性の動物よりは貧弱な肉体を服や髪型で隠し武装している。
街を歩く女性たちを眺めると、ビジネス街では彼女たちが武装していることがよくわかる。そうでないと、都会では生きづらいのではないか。
ほんわかとした雰囲気では、勘違いオヤジの対象になったりお局様の標的になったりする。
私たちが武具を外すのはひとりになったときか、時にはだれかとふたりだけになったときだろう。
まだ内風呂がない時代、銭湯は社交場でもあり大人を観察する場でもあった。
人はいろんな肉体を持っている。美しいとか美しくないとかという2分法ではなくさまざまな肉体がある。
彼女の文章を読んでいると、忘れていた当たり前のことを思い起こさせてくれるのだ。
今、お約束ごとのような文章が満ちあふれている中、ファミレスでの人間観察、ゴミから見る都会の様相など彼女の切り口はまっとうなが故に新鮮な感がする。
香港でのおじさんとのやりとりが面白い。
「まあ所詮新聞なんて・・・・」
「小説だ。新聞は三割の事実に、七割の嘘でできている。わしはそう考えている。本当に知るべきことは、何一つ書かれていない。だから小説だと思って新聞を読むことにしているんだ。」(同書65頁)。
あるいは写真について。
「自分で撮った写真を見る時、その場面を記録したという喜びよりも、また忘れられない一瞬を自分の手で切りとってしまったという哀しみを感じることのほうが、私には多い」(同書171頁)。
花を眺めるのみならず、手折ってしまうような感覚。
時代に沿い続ける星野さんの文章はこれからも気になるだろうな。
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