「友達の詩」とワキの世界 ― 2006-10-22 19:12
TV「僕らの音楽」で放映された中村中(なかむらあたる)さんの「友達の詩」という歌に惹かれた。
「手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから大切な人は友達くらいでいい」
中村さんが15歳の時に作った作品だという。思春期、自分が世界の中心にいるという根拠のない傲慢さと、薄皮をめくると傷つきやすい魂がそこにある時代。でもこの歌は思春期特有の歌ではなく、人との交流の中で孤独になっていく私たちの一面を掬(すく)い取っているように感じた。
中村さんは「性同一性障害」を宣言している。先日、読んだ「ワキから見る能世界」によると、ワキが一所不住(漂泊者)であり旅に出るのは、「人生の途中でなにかがあったパターン」と「出自が理由になる場合」だという。後者のワキは社会学でいう「マージナルマン(境界人)」であり、引き裂かれた自己に悩まされることになる場合が多い。
個人的なものでありながら社会的な悩み。
理屈っぽくなっちゃったけど、この歌は「友達でいい」ではなく「友達くらいでいい」という。
「手を繋ぐくらい」
「並んで歩くくらい」
「友達くらい」
とどんどん後退していく。世界は遠ざかっていく。そこから世界を閉ざしていくこともできるだろうけれど(引きこもったり、唯我独尊になったり)、世界はそれを許してくれなどはしない。私たちは、この世界で生きていくしかない。
「この現代において、新たな生を生き直すために必要なのは、自分をことを『無用』だと思いなす力であり、過去の自分を『思い切る』という力だ」(ワキから見る能世界 149頁)。
中村さんが歌という世界で表現していることが、上記の表現にリンクしていくというのは深読みしすぎか。
最近、Netの記事を読んでいると、やれ「モテ系」「非モテ系」などと命題を立てて、議論・類型化に熱心なのが見受けられる。恋愛を、人生をコミュニケーションスキルで乗り切ることなんてムリじゃないか。そんな類型化できる人生なんてつまらないじゃないか。
中村さんのすこし太めの声が身にしみるような秋の夜です。
【追加】
中村さんのオフィシャルサイトで「友達の詩」のライブ映像や曲がフルで視聴できます。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。