村上春樹が忌避したもの2006-03-14 01:50

内田樹教授のブログで、「村上春樹恐怖症」というエントリーを読む。
村上春樹の自筆原稿を編集者の安原顯氏が、勝手に古書店に売却したことが問題となっている。

で、さっそく文藝春秋2006年4月号「ある編集者の生と死ー安原顯氏のこと」を読んだ。
安原顯氏の評論は、すこし読んだことがある。率直な感想は、「なぜここまで尊大にふるまうのか、偽悪家ぶるのか」ということ。だ・か・ら、そんなにその作品を気に入らなければ、じぶんで小説を書けばいいじゃんという素朴な思いが、この編集者にはいつも感じられた。

村上春樹がこの記事で書いている「陰で他人の悪口をいう」編集者の存在など、べつに文芸業界だけでなく、どこの組織でも(我が会社でも)普通のことだ。安原顯氏は、陰で他人の悪口を言わない編集者だったと村上春樹も認めている。

しかし、村上春樹自身は、「本当のことを言えば、サラリーマン編集者でもなく、また乱暴な一匹オオカミ編集者でもない、有能な専門職として機能する編集者が日本にもそろそろ生まれて然るべきだと考えているのだが、」という(同書273頁)。
僭越ながら、私が、安原顯氏の評論を読んで違和感を感じたのは、小説家になれなかった挫折感みたいなモノをこの人からは感じられたためかもしれない。負のエネルギーで生きているような。村上春樹自身、安原顯氏の「手のひらを返したような批判」が始める直前に「そこには素手で蛇を触ったときのような、不吉な感触があった」(同書270頁)と、痛烈な表現をしている。

今回の、村上春樹が問題にしているメインは、自筆原稿が古書店などに勝手に流出したこと、つまり「「盗掘」という言葉はあるが、まだ生きている人間の墓を暴くことをいったいなんと表現すればいいのだろう?」(同書274頁)という事態なのだろう。

今回の、村上春樹の記事を読みながら、彼のある小説を思い出した。
「象の消滅」に収められている「沈黙」という作品。
この短編小説は、この短編集のなかで特に印象に残る小説だった。
ボクシングジムに通う31歳の青年。彼が、同僚にボクシングに絡めながら、人間の底恐ろしさを語り始める小説だ。青年は、中高一貫の進学校(男子校)に過ごした日々を回想する。その中で、彼は、青木という勉強もでき、周囲(同級生・教師)からも人望のある同級生からいわれもない敵対心を持たれてしまう。
中学の時、彼は激情に駆られて青木を殴ってしまう。そして、青木はそのことを根に持ち、高校3年のときに起こった同級生の自殺を彼の暴力によるものだという噂を巧妙に流す。
彼は、ひどく落ち込むが、青木という存在自体を人間の悪意の象徴と見なして、生きる力を回復する。

その作品の結末のほうで、彼は、こういう。

「僕が怖いのは青木のような人間ではありません。ああいう人間はおそらくどこにだっているのです。僕はそういう人間の存在についてはもうあきらめていますー中略ー
でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の話を無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。ー以下、略ー」(象の消滅400頁)

今回の文藝春秋では、村上春樹は、「スーパー編集者(エディター)」と自ら名乗っていた安原顯氏について、

「世間の一部はそれを「辛口批評」としてもてはやしたが、話はそれほど単純明快なものではない。僕は彼自身に対してというより、むしろ彼を後ろから焚きつけて、騒ぎを他人事のように楽しんでいた人々に対して、より強い不快感を感じてしまうわけだが。」と表現している(同書268頁)。

なにやら似たような表現になっていると思うのは、私の思いこみかもしれないが。
「沈黙」という短編が印象深い作品だったので、今回の文藝春秋の記事と、つい重ね合わせてしまう。
今回の事態は、著作権という法的権利が絡んでいるので、生のノンフィクションという形を村上春樹はとったのだろう。
だが、やはり村上春樹には小説という形式で、表現して欲しかったなぁという思いもある。

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