「二十歳の原点」とブログ2006-02-01 01:01

ユリイカ2006年2月号の巻末に,小澤英実氏の「読むのが怖い」という小文がある。
小澤氏は、「読書には、孤独を慰める性質と、孤独に向き合わせるという、相反した性質がある。」という。確かに、読書にはそのような面があるかも。

そして、たいへん興味を持ったのは、小澤氏の次の一文。
「ピーピー、ガガガで始まるインターネットの繋がりに救われてなければ、勢いで死んでしまう夜もあったかもしれず。『二十歳の原点』を書いた高野悦子も、ブログがあれば自殺していなかったのではないかと思う。」
この文を読んで、ひさしぶりに高野悦子のことを思い出した。
二十歳で夭折(自死)した彼女。同時に、つぎのような本も思い出す。原口統三(二十歳のエチュード)、岸上大作(意思表示)奥浩平(青春の墓標)。戦後の混乱、教養主義への切望、そして政治の季節に人はあっけなく死んでしまった。

作家関川夏央がいうように、高野悦子が生きた時代は、みなが「爪先立って歩いているような時代」だった。「知らない、わからない」ということを恥じる時代だったような気がする。だから、彼・彼女らは、日記を書き続けたのかもしれない。

関川夏央は、その著作「砂のように眠る」で、もし高野悦子が生きて中年になっていたなら、その日記は押し入れの隅にそっと眠っていただろうと、確か書いていたような気がする。

高野悦子が今という時代を生きていたなら、ブログを書いていたかもしれない。
そして、より孤独を深めたのか、より世界に自分を開いていったのかは、わからない。
若い頃、社会学の本(題名も忘れた)を読んでいると、「自己追求は、誠実なように見えて迷路に迷いこむことにすぎない」という文章に出会った。

ひどく納得したことを覚えている。

若い頃、あんなに自死した人の本を読んだのは、死が抽象的だったからかもしれない。
そして、いまおじさんになって、高野悦子のことを思い出している。
いま読む彼女の最後の詩は、あまりにも切ない。
森に籠もるとき、思い出すかもしれないぁ。

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックを背負い
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた 一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのするその煙を
古木よおまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣類を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

定本 二十歳のエチュード 二十歳の原点 砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった

めざせ!「おひとりさま」の達人2006-02-01 22:24

関西にも様々なタウン情報誌があるが、わたしが好きなのは「Meets Regional」。
3月号の特集は「『おひとりさま』の達人」。「ひとりで、が楽しい店・場所・過ごし方」とある。

ひとりでいく食事の店や、飲み屋、バーなどの紹介本なんですよ。
「ひとり休日街。」ということで、「京都・一乗寺〜百万遍/のらくら文系な休日」という記事には書店やカフェが載っている。とても魅力的。

わたしは、高校卒業してから結婚するまで、純粋おひとりさま歴10年。
息子たちが成長してからは、復活おひとりさま になったよう気がする。

山に登るのも、本を読むのも、映画に行くのも、パソコンで遊ぶのも、基本的にはひとり遊び。もともとひとりが好きなんですよね。
もちろん、友人たちとお酒を飲んだり、気のあった人と美術館や映画に行くのも楽しい。でもね、やはり「おひとりさま」の時間がないと、なんか疲れるんですよね。妄想する時間が必要なんですよ。

ひとりでできるもん、じゃなくて、ひとりでもさらっと楽しめる時間をもつこと、それがちょこっと自分を豊かにするんじゃないかな。

京阪神のさまざまな店が載っているけれど、けっこう出かけた店も多い。
あたらしい発見もあるので、しばらくは持ち歩こうっと。

京阪神の「おひとりさま」、この本、おすすめですよ。

でもね、ブログはなぜか訪問者が来てくれるとうれしいもんです。
ここは遠慮なくお越しくださいな。

亀の歩みでブログを(勝手に祝!5,000人)2006-02-02 23:47

今日も仕事後、友人とまたまた小1時間ほど飲む。
映画「博士の愛した数式」にでてきた能の場面が話題になる。
小説版では、能の場面はない。彼によると、映画版の能は「江口(えぐち)」ではないかという。
能「江口」は、西行法師からの一夜の宿を断った遊女が幽霊となって現れ、旅の僧に遊女としての嘆き・哀しみを語る。そして菩薩となって去っていくという物語らしい。

なるほど、博士と義姉がわだかまりを解くかのように能を観るシーンを挿入したのは、二人の葛藤が家政婦・ルートを介して融解していくのを描きたかったのかなとも思う。

ところで、ただいまこのサイトの訪問者が5,000人となりました。
純粋にユニークアクセスをカウントしているので、訪問者数5,000人、サイト閲覧数9、020。
昨年の10月29日からカウントしているから、3か月ほどの間の訪問者数です。
αブロガーであれば数時間で達してしまう訪問者数。でも、このような「弱小ブログ」を覗いていただいて感謝しています。

もっとも少ない日は12月15日の8人!でした。
訪問していただいた方、コメント・トラックバックを寄せてくれた方、そして検索エンジン君(!?)、ありがとうございます。

大学時代、後輩達とガリ版刷りで、意見表明のビラを配ったことがあります。
「正しいことは伝わるはずだ」「誠実さは善だ」などと、傲慢にも思っていたわけです。でも、そんなものはこちらの一方的な思いこみ、「こんなに愛しているのになぜ振り向いてくれないんだ」という非モテ男と変わりません。

まぁ、このブログがそうならないようしなくちゃ。
まったりとブログを続けていきたいなぁ。それにしても、暖かくなって早く新緑の山に行きたいー。春よ、来い!

二〇〇二年のスロウ・ボート2006-02-03 23:28

二〇〇二年のスロウ・ボート

わたし、本を読み始めて、つまらなかったら読むのをやめちゃいます。
時間の無駄ですから。 「つまらない」というのは作者が悪いんじゃなくて、わたしの感性と肌が合わなかっただけの場合も多いんですけど。

この本、読み始めると正直、最初は苦痛だった。
最初の風景の描写とか、主人公の心の動きを表現する文体が、なぜかしっくりとこない。なぜだろうと思っていると、この小説の文体、ランダムな・意識的にノイズを入れた音楽みたいなんですよね。

簡単にいうと、実験的すぎて、読むのがしんどい。

でも、左の乳輪が北海道を、右乳輪が宮古島の形をもつ(どんな形?)ガールフレンドが出てきて、俄然おもしろくなる。
最後の女・庖丁人(で、女子高生でもある)の部分などは、歯切れがいいんですよね。

ストーリーは、1985年、1994年、2000年の東京を、東京脱出(世間脱出)を試みる主人公から見た同時代史ということか。元不登校児、元フリーターのこの主人公の、こころの動きはなかなか面白い。知的だけど、ロック的(本文を読めばわかります)。

そしてこの本は村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」のカバーバージョンとして書かれたもの。作者の、後書きもなかなか興味深い。

たまには好き嫌いせずにいろんな本を読んでみるもんです。

比良から芦生の森へ2006-02-04 21:35

琵琶湖里山ふるさと散歩

もし日本の山でどこが好きかと聞かれれば、迷うことなく、琵琶湖・湖西の比良山系から芦生の森にいたる山域をあげるだろう。

それほどたくさんの山を歩いているわけではない。ピークハンター(山頂制服)でも百名山踏破を目的にもしていない。ただ、森に入りたいだけなんだ。日中は縦走用ザックを背負ってひたすら歩き、夜はテントを張ってひとり森で眠りたい。

今回のこの本、湖西地方の魅力がダイジェストに載っている。
NHKで「里山」特集として放映されたことがあるので、観た人もいるかもしれない。
湖西を中心としたこの「里山」シリーズで、もっとも印象に残っている映像は、田んぼの蛙の瞳に打ち上げられる花火が映っているシーン。ほんと、よくぞこんな映像を撮ったもんだと感心した(蛙はめいわくだったろうが)。

いま比良山系は、雪に閉ざされている。雪山は苦手なので、新緑の時季にテントをもってでかけたいなぁ。
JRが京都から逢坂峠下のトンネルを抜けると、海のような琵琶湖が車窓に見えてくる。
そして比良山系が見えてくると、いつも胸がきゅんとするような感覚がある。

一方に、光にきらめく琵琶湖の湖面を眺めながら、そして他方に芦生の森へと続く山の連なりを眺めながら歩ける比良山系は、わたしにとっては飽くことのない山なんですよね。

棚田、芦生杉・栃の巨樹にも出会える。安曇川・由良川の豊かな自然もある。
雑木林の優しさもある。

ぜひ比良山系のよさを知ってもらいたいなぁ。

里山の道 萌木の国 カラー版 里山を歩こう

SUSE Linux で遊ぶ2006-02-05 20:00

今日はSUSE Linux 10.0のアプリケーション設定をおこなう。
Linuxをデスクトップとして使うことを主眼としているので、Vine Linux 3.2 と同様のアプリケーションをインストール。

ブラウザ:Firefox
メーラー:Evolution
インターネットRadio:streamtuner+streamripper
RSS Reader :liferea
ファイラー:ROX
Htmlエディター:Bluefish
日本語入力:Atok for Linux
画像閲覧:gthumb
audioplayer :beep-media-player
動画再生:Mplayer

VineLinuxだとapt-getでインストールするが、SUSEの場合は、YaSTというGUIの管理ツールがある。これが、とても優れもの。インストールソースを変更すると、たいがいのソフトを自動的にインストールする。競合関係もチェックするので、トラブルにあいにくい(トラブルがまったくないわけじゃない)。 ほー、こんなにラクチンでいいのかと思うほど。
VineLinuxでの苦労は、なんだったんだーと思うほど、設定が簡単。
はじめてLinuxを使うには、このSUSE Linux 10.0、お薦めだと思う。

現在、
Vine Linux3.2 on ThinkPad X20
SUSE Linux 10.0 on ThinkPad X21
というふたつのLinux環境で遊んでるわけだ。

Linuxするカエル?2006-02-05 21:58

カエルのこころ・ポストカード

友人から「カエルのこころ・ボストカード」という本をいただく。
なんでカエル?なんでポストカード?

晩酌するカエルや、女性用下着を盗もうとするカエル、Hするカエルなど、えらく俗っぽいカエルが現れる。ミニチュアのセットにカエルをおいて、撮影しているみたい。
amazonのレビューでは「動物虐待ではないか」という意見もでているようだ。

まぁ、「動物虐待」というのも言い過ぎのような感もあるが。

比良の山上池「音羽池」には5月頃、モリアオガエルの卵が池へと向かう枝に無数に産み付けられている。当初は、純白のソフトボールのようだが、次第に薄茶色へと変色していく。そのころには卵も成長して、いっきに池に落下してオタマジャクシになるわけ。

でも、池の中にはイモリが待ちかまえていて、多くのものは食べられてしまう。
カエルになるまで成長するのは、その生存競争を勝ち抜いたモノだけという自然の摂理がある。

なんか「動物虐待」というのは、人間だけが自然の摂理からは除外されているような物言いで、あんまり好きじゃないんですよねぇ。

それにしても「パソコンするカエル」「Linuxと遊ぶカエル」が出てこなかったのは残念。


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