小舟と死んだ友2019-09-18 20:36

2019年9月17日〜18日

17日
湿度のない快適な晴れ。風が強いが、木蔭に入ると涼しい。

クロモリロードで図書館などを巡りながらポタリング。

緑陰で天野忠の詩を読む。

小舟

若い人は物持ちだから
あたりの景色も見ずに
どんどん先に行くのもよい。
老人は貧しいから
物惜しみをしなくてはならない。
生から
死に向かって
極めてゆるやかに
自分の舟を漕ぎなさい。
あたりの景色を
じっくりと見つめながら
ゆっくり ゆっくり
漕いでおゆき、
めいめいの小さな舟を。


―天野忠『掌の上の灰―一日に一度のほっこり―』(編集工房ノア)より

日本の人口の3割近くが65歳以上となり、私も国も老いていく。
爪先立ちするような青春時代、子育て・仕事に追われた中高年時代を経て、「小さな舟」に乗っているようなものかもしれない。望むらくは、私の老化は仁淀川河口から遠い世界の太平洋へと流れていくイメージかな。



四十年前に死んだ友へ

君が十分死に足りた分を
僕は生き残り
こんなに老いぼれて
こんな小さな日だまりで
ひとつふたつ小銭を算えている。
君は
君のやさしい思い出で
たくさんのぼくの生の部分を奪いつくした。
十分に君は死に足りた。
僕の灰は君よりも不潔だろうし
僕についてのひ弱な思い出は
悲しいかな
誰の生の部分をも奪うまい。
それで君と僕は五分五分だ
たぶん
僕は救われる・・・・・。


「その他大勢の通行人より」

長らく生きるということは、たぶん老醜をさらしていくことだろう。
若いままの顔しか思い出さない友人、夭折した友、そして平均寿命など意味を持たずに去っていた人たち、
「君は
君のやさしい思い出で
たくさんのぼくの生の部分を奪いつくした。」

美しく、切ない表現だ。でもどこかで私たちはまた出会うんだろうね。


浴後

裸で
向き合って
私は
あーあ、と云った。
あなたも
私を見て
あーあ、と云った。
私の手があなたを撫ぜて
アッ、アッと云い
あなたの手が私に触れて
アッ、アッと云い
お互いをみつめ合い
よだれを垂らし・・・・・
どっちも
生まれて八ヶ月。

―天野忠『続 掌の上の灰―老人のための日に一度のほっこり―』(編集工房ノア)より


最後の纏め方が、うまいね。ユーモアと品がある。孫のことを思い起こして、ほっこりした。

ロードバイク 40km

18日
クロモリロードで西北へ。途中、初めての道で野菜の露店販売があり、茄子などを購入。サングラスを買った眼鏡店で、日常使いの眼鏡を注文。度数は前回検査してもらっていたので一時間半ほどでできあがる。
妻と喫茶春秋でモーニングセット(サンドイッチと珈琲)420円をいただいて、雑談。
老夫婦となり子育ても終わり、少しは隠居夫婦らしくなってきたかな。

息子たちが運よくキチンと育ってくれたのがよかったね。

妻はそのまま買い物などに行くので、解散して、私はジュンク堂で新刊のチェック。
新刊をチェックしてから再度眼鏡店へ、できあがった眼鏡を受け取っていったん帰宅。

ひと休止してクロモリロードで図書館へ。何冊か借りて、公園で読書。
帰路の西日は明るいが、夏の終わりが近づいていることがはっきりとわかる。
北風が強くロードバイクでも進みにくい、でも東西進行が基本だったのでのんびりと走った。

ロードバイク 21km


ローカル2019-09-22 13:27

2019年9月19日〜21日

19日

木曜午後、孫1号のスイミングスクールの付き添いをして、スクール終了後公園で孫2号も合流して1時間ほど遊ぶ。

坂東眞砂子「わたし」を読了。

自身の高校から子ども時代へと遡る自伝的小説と銘打っているが、「事実」というのは多面的なものであり、ましてや小説家が描く学校時代・ローカルの風景は一筋縄ではいかないだろう。有名私立高校に進学した外見的には地味な少女が、その非凡な才能を学校生活の中では見せることはなかっただろう。

このような感想もあるね。


小説で出てくる「猿丸峠」とか「斗賀野盆地」の風景が気になった。

小学校時代の裏山に続く道の描写が、私にも高知の里山を思い出させる。

「木々に囲まれた静かな場所だった。谷間に作られた段々畑は、蓮華の花で桃色に染まっていた。小鳥の囀りがあたりに響き、太陽の光がほこほこと木々の新芽を包んでいた。あたりには誰もいない。優しい曲線を描く横長の段々畑が斜面に沿って下に続いている。穏やかで、平和だった。わたしはうっとりとして、畑の畦道を辿っていった。」


著者には「くちぬい」という田舎の閉鎖性をこれでもかと描いた作品がある。
自著を語る文章も、ローカルに対してなかなか辛辣だ。

『くちぬい』坂東眞砂子|RENZABUROスペシャルエッセイ ...



ただどこにも楽園はないだろう。対環境、対世間、対人、自分がどのように親和性を保つかそして、自分自身を無理なくなだめるかということも大切かもしれない。

坂東眞砂子氏は癌の末期、高知で人生を全うしている。

瀬戸大橋ができる前にあった宇高連絡船(私もなんどか利用したし、船上の讃岐うどんもよく食べた)で大学受験に向かう彼女はこういう

「瀬戸内海はつまらない海だった。わたしにとって、海は太平洋だ。
----中略-----
瀬戸内海は、わたしの考える人生だった。波風のない、目的の見えている人生。両親が、わたしに望む人生。わたしはそんな人生に足を踏みこむことが厭で、県外の大学を受験するのだ。しかし、その第一歩は、やはりこの瀬戸内海を渡ることだった。」


ローカルを離れる人の心性が顕れているけれど、昨今は日本自体が「つまらない海」になりつつあるかもしれないという思いもある。

20日
長男夫婦の次男(孫2号)の一歳の誕生日会を長男宅で開催。長男の奥さんが料理を用意してくれて、皆で食事してお酒を飲む。孫2号はご機嫌さん。大きな病気もせずすくすくと育ってくれている。

長男も次男もしっかりとした奥さんがそばにいるので、私たちも安心だ。

帰宅後、爆睡。

21日
阪神尼崎までウォーキング。尼崎下町をブラブラと見学。
ウォーキング16km

旅に出ようかと、丹波方面のガイドを購入。
ほとんどの場所をロードバイクで走っているけれど、加齢とともに100km以上連続で走る自信がなくなってきている。バスや鉄道旅して旅ランするのもいいかもしれない。

最近読んでいる本にこんなことが書かれている。

「作家井伏鱒二氏は生前好んで色紙に“こころがさわばがたびにいでよ”と書いた。心に鬱積するものがあれば旅に出るのが一番だ。それも一人旅がいい。なぜなら自分となら一番気が合うからだ。」

隠居なので鬱積するものは少ないが、元気なうちに一番気が合う自分と旅するのもいいだろうな。




秋分の日2019-09-23 22:15

2019年9月22日〜23日

22日
完全休息日。大相撲をみる。夫婦でご贔屓の御嶽海が優勝したので、勝手に気分がよろしい。

23日(秋分の日)

施設に入所している義父のお見舞い。義父は94歳となる。

私の父は脳梗塞で倒れ、一年ほどで67歳でなくなった。父は放蕩三昧だったので、ある意味幸せな人生だったのだろうと、今となっては思う。来年、私も父の年齢になる。
老人となり、枯れ落ちるようにうまく死ぬのはなかなかに難しい。

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微笑

腕まくらしてひるねしてたら
うすい背中を
うすい風が
さすっていった。
ちょっぴりと極楽の気持。

ーコロンと横になるから
 オヤ、昼寝かと思ってたら
 もう死んでたのよ・・・・・

さくら湯のばあさんが来て
うちのばあさんに話していたっけ。
番台の上にこじんまり座って
鼻毛を抜いていたあのじいさん・・・・・

うまくやったもんだ。
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続天野忠詩集から


施設から義母宅に立ち寄って、雑用をすます。

老々介護にはもう少し時間があるが、気も疲れたので妻と二人で地元の酒蔵が併設するレストランに立ち寄った。

ビールの4種飲み比べセットを注文して、ゆっくりと味わう。

帰宅後、蒸し暑かったのでエアコンを入れて軽く昼寝。

夜は太田和彦氏と吉田類氏の居酒屋番組を見る。




慈しむこと2019-09-26 11:22

2019年9月24日〜25日

24日
曇天。午後からジョギングに出かける。

定番の武庫川ジョギング。BSの旅ランを見ていたら、走る場所が逗子・葉山、海を眺めながら走るのもいいけど、川沿いを走るのも気持ちよい。
高知の安芸市周辺の海がとてもいいなと思っているので、賃貸物件を検索してみたが、意外と高い、隠居老人は旅してちょこっと走るほうが現実的だろうね。

武庫川左岸(尼崎側)は右岸(西宮側)よりランナーは少なく、サイクリング道もないので、かえってマイペースで走ることができる。

阪神武庫川駅で折り返して、12kmほど走った。


夜は読書して、さっさと就寝。

こんな一節に惹かれた。
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よっちゃんはきっと仙人みたいな生活に憧れていたんだろうなと思う。一生懸命生きているつもりでも、どれも曖昧で、それをひとに説明する術もない。それだけに、もう世の中を捨てて仙人のように生きるのが、誰にも迷惑を掛けることもなく、一番すっきりとしてわかりやすい方法だからだ。
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非社交的な隠居生活を送っているが、仙人みたいに生きられたらいいね。

25日

快晴。久しぶりに10km以上走ったら、ちょっと筋肉痛。

午前中、馴染みの理髪店で散髪。来月から消費税値上げにより200円値上がりになるらしい。丁寧に散髪してくれて清潔なお店なので、このままお世話になるつもりだ。
キャッシュレス云々と喧しいが、隠居にはもうひとつよくわからない。現金かクレジット払いだからね。

今日から3日連続で孫の保育所迎えの予定がある、いつも保育所の送り迎えをしている長男が繁忙期なので、私たちがお迎えを代行することになった。

その前に疲れない程度に武庫川ジョギング、6km。

シャワーを浴びてジムを終えた妻と合流して、保育所迎えに行く。
孫2号を妻が抱っこして、孫1号は保育所から家まで走って帰るというので私が自転車で並走しながら帰宅。二人とも育てやすい男の子で孫1号(まもなく4歳)は聞き分けがよい、やはり私たちには遠慮しているめんがあるのだろう。

長男の奥さん、長男が順次仕事を終えて帰宅すると、孫たちは我が侭を言ったり、遊んで遊んでと両親にせがむ。
私たちができるのは孫を慈しむのみ、そして孫たちが小学校高学年になったら自立心が芽生えてくるので私たちを必要としなくなるだろう。孫を慈しむ時間も意外と長くはない、そして私たちも並行して老いていく。動物の摂理はうまくできているなとも思う。
孫二人と遊ぶ体力をしばらく維持しないとね

午後7時半頃帰宅して、簡単な夕食。
午後9時過ぎにはベッドで読書、いつのまにか寝ていて夜中に夜灯を消す。



寝顔2019-09-28 22:17

この四日間は孫の子守中心の生活。

正直、体力と気力がいる。

腰を痛めないようにしないとあかん・・・

長男宅で孫といっしょに入浴したので、ビールの消費量が多い三日間でもあった。

孫たちの笑顔と寝顔を見ていると、年寄りとしての役目をすこしは果たしているかなとも思う。

一年半経った2019-09-30 19:44

2019年9月29日〜30日

29日(日)
クロモリロードで図書館へ。最近読み続けている永井宏氏の旧い作品を借りる。
カフェ・ジェネレーションTOKYO

次第に生きている人より早世した、あるいは物故した作家などの文章を読むことが多くなっている。

生きてる人の表現はともすると押しつけがましく喧しい、そう思うのは、充分に自分が老化している所以だろう。

最近は隠居生活の足としてロードバイクに乗っているが、自転車保険を更新した。
100km、200kmと、ガシガシとロードバイクに乗ることはなくなっているが、対人賠償のお守りとしては役立つし、バイク故障により自走不可となったときのロードサービスがあるau損保の自転車保険をそのまま継続した。

ロードバイク走行距離 24.7km
武庫川右岸では駅伝の大会が開催されており、ガチランナーが集結していた。

公園で読書してから帰宅してジョギングシューズに履き替えて、ジョギングに出かける。
のんびりと6kmほど走る。

MGCの舞台裏などを取材した雑誌を読む。
Number Do(ナンバー・ドゥ)vol.36 MGC徹底詳報/秋のラン メンタル強化大作戦(Sports Graphic Number PLUS(スポーツ・グラフィック ナンバー プラス))

私はヨタヨタと走っているけれど、なかなかおもしろい特集だ。

夕方は長男夫婦と孫が我が家で夕食。孫2号を私が入浴させる、あいかわらず彼はニコニコと笑顔。
残業続きで長男は疲れ気味、でも子育ては「明日にしとこう」はできないので、疲れることもあるだろう。孫1号は優しい性格なので、長男の奥さんが今後のことをちょっと心配していたけれど、優しいことがダメだとはとても思わないな。
声高に主張すること、合理的であること、ショートカットして人生を生きようとすること、そんな賑やかしの人生でなくともええやんと爺さんは思う。

と日本酒を飲みながら皆に喋ったが、たぶん誰も聴いてないほどワイワイと食事していた(苦笑

孫1号はそのまま我が家にお泊まり。三人で就寝。

30日(月)

午前6時、孫1号とともに起床。朝食を食べてから、近くの公園で1時間半ほど孫1号と遊ぶ。かけっこ、川での水切り遊びなどする、当然ながら孫は元気いっぱい。

午前10時半すぎに長男宅に孫を連れ帰り長男の奥さんに孫を託す。妻はそのまま歯科へ、私は帰宅して読書。二階のベッドで寝っ転がって読書していると例によって小一時間ほど昼寝していた。

夕方、再度長男宅に行き、孫の入浴・食事のお手伝い。2時間ほどいて帰宅。

隠居生活を始めて今日で1年半が経過する。四十年近く組織人をしてきたのに、旧職場を懐かしむこともなく、組織言語もすっかりと忘失した。とはいえ凡庸な人間なので、組織人としての衣を脱ぎさるとより凡庸な老人がいるだけだなと思う。

老人となるのは誰しも初めてなので、最近は老人本がやたら多い、あるいは自分が老人なのでその方面の本が目につくだけかもしれない。
老人も家の中(結局は個々の隠居生活)の多様性を大切にすればいいんじゃないかな。

昨年4月から隠居生活に入ったので収入は減少、私の年金と貯蓄の取り崩しで生活、今年からは妻が年金を受給する年齢になったので、老夫婦二人だけなら質素に暮らしていくことはできる。

孫たちの子守が意外と多いのが予想外だったが、これは次世代へのささやかなギフトとしての意味があればいいかな。

充分に睡眠をとって、お金はないけれど自由な時間がある、これは組織人になる前の学生代と似通っているような気もする。大きな違いは自分に感性と身体の若さは無くなっていることだけれどね。

凡庸に生きていくこともそこそこ楽しい。




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