亀岡・和(やわ)らぎの道を経て紅葉峠、日吉ダムを走る。2008-11-02 22:22

落車による肩の痛みも癒えたようなので今日はロードバイクで走りに出かけました。昨日、某謝恩会に出席しそのあと知古のご家族とお食事。冷酒・奥播磨をクイクイと飲みひさしぶりに酩酊しました。昨夜は早く就寝するも今朝も早起きできず。沢ノ池に向かうには時間が足らないので、今日は南丹市の紅葉峠を走ることにしました。
猪名川堤防を経てR477を北上する。

定番の野間の大ケヤキで休憩。

湯ノ花温泉街を抜けて亀岡市街地へ。例によって府道25号線に入る。この道は和らぎの道と名付けられ神社が多くある。

出雲大神宮の池。

中池に突き当たりR477向けて走る。


R477からの分岐408号線に入る。いつのまにか南丹市に入っている。

「日吉ダムと紅葉峠をめぐるみち」という案内図のあるところを右折する。

ダラダラとした坂道を上っていく。比較的最近できた峠道のようで路面状態はよい。

途中、展望台がありそこから南丹・園部の町を眺めることができる。

ウネウネした道を上っていくと紅葉峠に到着。

標高は380m。まぁ他の北摂・丹波の峠と同じくあっさりした峠です。

ダウンヒルを楽しめると思って下っていくとすぐ里山に下りてしまう。あれっ???。こんなこともあるんだ。 なんとなく気に入った樹木の下で休憩。




すぐに府道50号線に合流。当初は50号線を南下し愛宕林道を経て亀岡市街に下りるつもりだったが、「日吉ダムまで10Km」という標識につられてフラフラと日吉ダム方面へ走る。

ダム湖まで快適な下り。世木ダムに到着。


ダム湖の周遊道路を走る。


車もほとんど通らず快適に周遊道路を走っていくことができる。前方に子犬?が走っているので、ロードバイクで追ってみると子狸が走っていました。草むらに逃げたのでデジカメ画像が撮れず残念。


日吉ダムに到着。


ダム上の散策路。

帰路はいつもR477を利用するが今日は25号線を走ってみた。これが大正解。山の合間の田園風景を眺めながら快走できる。車も少なく信号もほとんどない。この道はいいなぁ。

帰路は湯ノ花温泉、R477、府道106号線、知名湖周遊道路と走り、R173,猪名川堤防と自宅まで走る。

今日の走行距離【150.78】Km

・10日以上自転車に乗らなかったのは初めてではないか。右肩の打撲もだいぶよくなったので肩慣らしのために走ったが帰宅してみるとけっこうな距離走っていた。自宅を発進するとフラフラと遊んでしまいます。
・自転車お休みの間に、自転車本を熟読。より快適にロング距離を走るため研究した結果、サドルが今まで少し高いようなので何ミリか低くし、ライディングスタイルもすこし変えてみた。でもあんまり変わらないな・・・。まぁ楽しく走ればいいか。
・帰路、R173に合流すると自動車の渋滞の列。ほとんど自動車がいない道ばかり走っていたので、なんか異様な光景に見える。
・落車した猪名川堤防の土手をあらためて見ると、けっこう急斜面だ。さっさと転倒していてよかった。下まで落下していたら大けがしていたなとちょっとゾッとしました。
・今日はロードバイクにあまり会わなかった。皆、サイクルモードに行っているのかな。私? 私は2台目を買うお金がないし、人が多いところは苦手なので明日も戸外遊びします。

コミック「孤高の人」を読む2008-11-04 23:34

いちばんやさしいロードバイクメンテナンス&乗り方完全ガイド もっと長距離を楽に走れる!スポーツサイクルのコツ60 (コツがわかる本) 誰でもカンタン!自転車メンテナンス
最近、自転車ブームのようで本屋にいろんなメンテナンス本などがありますね。混合玉石状態のような気もしますが。形からはいるのが大好きなわたくし、小説などに読み疲れたときは電車の中でパラパラと眺めています。 ボチボチと消耗品を集めているので、ロードバイクの整備もしないとあかんなぁ。

孤高の人 3 (3) (ヤングジャンプコミックス)
原案新田次郎著「孤高の人」のコミック版。でも井上雄彦「バガボンド」が吉川英治著「宮本武蔵」を原作としながらもとんでもない異界を創りだしていると同様、このコミックも大胆にクライミングの異界を創りだしている。とにかく絵がうまい。心理描写もかなり鋭い。かなり興味を惹かれたコミックだ。

岳 7 (7) (ビッグコミックス)
山岳コミックといえば11月28に新刊・岳8が発売予定。

仕事で疲れたときにはメンテナンス本やコミックを読むのもいいものです。

明日は快晴。仕事をさぼってロングライドに行こうと思ったが、スケジュールがちょっと厳しい。ムリっぽいので地図でも眺めてロングライド・コースを考えよう。

南木佳士「トラや」を読む2008-11-05 23:59

トラや

南木佳士の小説「トラや」を読了。陰鬱な曇天のような文章が続くのになぜかこの作家の作品には惹かれるものがある。終末医療に携わる医師と芥川賞作家としての二足のわらじを履くうちに、南木は鬱病を発症する。その回復過程の中で家族の統合点となる猫のトラとの生活を描いたものだ。だが単に猫愛好家としての独りよがりでもなく、また私小説でもない。

高知の少年時代、犬を飼っていたことがある。最初の犬は当時の田舎では当たり前のように路上に捨てられていた子犬。今のように犬の避妊などの習慣がない時代、飼い主は子犬が生まれると川に流すか、路上に放置していた。黒ブチの雑種犬で母に頼んでも受け入れられないだろうと、家近くの竹林に段ボール箱を置きそこで牛乳を飲ませたりしていた。母に泣きついて結局飼うことを許されたが、すぐに農薬を含んだものを口にしたようで狂うように嘔吐した後、死んでしまう。
落胆している私を見て、父が親戚の家で生まれた子犬を家に連れ帰ってきた。当時、よく飼われていたスピッツの雑種でこの犬は私が小学2年から19歳になるまで11年生きた。亡骸は里山の斜面、町を眺めることのできる場所に埋葬した。大人になって帰郷してみると里山は切り崩されゴルフ場に変貌していた。

「中途半端に言葉で分かりあえていたつもりになっていて、じつは何も共通のものは持ち合わせていなかった人間関係もあったよな、とトラに語るたびに思い出す。ならば、誤解なぞ生じようもないトラとの無意味な言葉での関係のほうが風通しがよくていいではないか。」(同書152頁)

今年の晩夏の夜、帰宅途上の家の近くで柴犬の雑種のような小型犬が路地から現れ、私に付いてくる。首輪をしているし汚れもないので、近所の放し飼いの犬かなと思っているとひどく喉が渇いているようだ。器に水を注ぎ与えると、あっというまに飲み干した。玄関のドアを開けるといっしょに入ろうとする。叱ると怯えるでもなく、お座りをしてじっとこちらを眺めている。聡明な顔つきの犬だ。犬も人間と同じである程度成長するとその聡明さが顔に顕れる。笑っていても目が笑わない人、涙を流しても心はそこにはない人、いろいろな人を見ると犬の律儀な聡明さに惹かれることがある。

すこし食べ物と水を与えて玄関に放置した後、覘いてみると犬はいない。飼い主の元へ帰ったのだろうか。もう一度帰ってきたら飼い主を捜してみよう、もし見あたらなければ家で飼ってもよいなと勝手に思っていたが、犬は戻ることはなかった。

あれだけ聡明な犬との出会いを自ら反故にしてしまうほど、自分は感受性を犠牲にしてリアルを生きているのかなとその時は思ったほどだ。

60歳になれば私は当然のように孤独になり、そして組織や世間からもより遠ざかっていくだろう。その時、犬を飼ってもいいなと思っている。あとは犬と私がどちらが長生きするかの競争になるだろう。嫉んだり羨んだりする競争ではなく、生き物としての存在を互いに続けていくということ。

そして
「永遠の不在は、遺された者の内に不在という形で残る。そして、それも遺された者の永遠の不在によって消滅する。」(同書189頁)
永遠の不在は平等に訪れる。それを充分にわかった今、こんな妄想をしてみるのもよいかもしれない。

服部文祥「サバイバル!」の思想2008-11-07 23:59

ロードバイクで峠を上っているとき、自分の身体が撓(しな)るような軋(きし)むような感覚を味わう。自分の身体がロードバイクというシンプルな道具を通じて道を、そして距離を感じていく。おそらく健康のためとか減量のためとかという欲求ではなく、乗ることが楽しいというのがロードバイクのもつ感覚ではないか。 だがロードバイクはアスファルトという、第1義に自動車のために造られた道路を走るしかない。

サバイバル登山家
この鮮烈な表紙で話題を呼んだ「サバイバル登山家」の続編が発刊された。

サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書 751)
サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか

「サバイバル登山家」については以前ブログでも「サバイバル登山家」と欲望資本主義という記事を書いている。

続編とも言うべきこの本では、登山道・山小屋をひたすら避け、日本海から上高地へ道なき沢を遡行していく北アルプス単独縦断記、そしてサバイバル登山の方法論が詳細に書かれている。とくに「第4章サバイバル思想」は著者の現時点での到達点であり刺激的な文章に満ちあふれている。

著者の主張にすべて賛同するわけではないが、高みのみを目指し、山小屋でも街と同じような快適さを求め、集団で山歩きするようなスタイルに私はなじめない。もちろん著者のようなハードな山域・登山をすることは体力的に不可能だ。サバイバル登山を制するのは結局体力だろう。

著者はフリークライミングの思想からサバイバル登山へと行き着いた理由として
「道具と人間のどちらがボスなのかわからないこの世界で、もう一度まっさらな自分を取り戻す。自分の肉体と山との間に挟まっている物質を取り除いていくことで、人は登るという行為に近づき、自分の肉体に戻っていったのだ」(同書245頁)と書く。

なんて魅力的な言葉だろう。街や組織で生きていくということは何か薄汚れたような水を飲み続けているような感覚がある。効率や人間らしさなどという妙な物差しで測定され、そして自らも測定していく。

できれば軋みつつ撓りつつロードバイクに乗ったり、山歩きをしてみたい。そのとき薄汚れた水ばかり飲んでいる身体がすこし目覚めるかもしれない。

伊丹西国街道ポタリング2008-11-08 21:32

今日はガクッと冷え込み午前中は雨模様。午後すこし雨が止んだのでクロスバイクで軽く走ってきました。
伊丹周辺の旧西国街道をポタリング。

伊丹・猪名野神社前で缶コーヒーを飲みながら休憩。

旧西国街道は途中R171に遮断されながらも、昔ながらの狭い町並みを走っていくことができる。
復元された水車小屋。


また雨が降ってきたので少しだけ自転車に乗った1日でした。

今日の走行距離【21.67】Km

クロスバイクはちょっとした悪路でも走ることができるし、路面に神経を使うこともない。タラタラ走るにはいいけど、やはり長距離はしんどい。クロスバイクで北摂まで走ったり、160Km走ったりしたが意外と体力があったようです(苦笑。でもクロスバイクで100Km以上は走るのはもうムリっぽい。

明日も寒く曇天のようです。ロードバイクで走れることを願って冬用サイクルウエアーを準備しました(寒がりです・・・)。

TREK7300の全走行距離 2819.8Km(2006年7月〜)
BASSO VIPERの全走行距離 8454.4Km(2007年8月〜)

寒さに馴染めず西宮鷲林寺ポタリング2008-11-09 22:47

今日は曇天で最高気温も14度を下回り12月上旬の天候でした。午前中は所用があり、それが終わった後、あまりに寒いので居間に電気カーペットをセットして「ジャパンカップ」(BSフジ放送)をタラタラ見ておりました。
ロードレースのことはよくわからないのですが、イタリアのバリバリのプロチームが参戦しているようで、ダイジェスト版とはいえなかなかの迫力。宇都宮森林公園のコースも北摂の風景と似ており、日本らしい風景の中でのレース。
ゴール前500mで、今回から復帰したイヴァン・バッソのアシストが後方から死力を尽くして上がってきて、バッソをアシストしようとする姿に「ロードレースってすごいな」と思いましたね。

寒いからといってロードバイクに乗らないと明日から調子が出ないので、西宮の鷲林寺まで軽く走ってきました。
短いコースだけど適度な上りがあって、すこし走ったかなという気持ちになります。

仁川激坂を経て五ヶ池ピクニックロード、神呪寺、北山貯水池と走ります。
甲山を望みながら休憩。


鷲林寺(標高340m)に到着。静かなお寺でここから眺める阪神間の街並みはなかなかのものです。


11月中旬には紅葉時期でライトアップされるとのこと。

下りも五ヶ池ピクニックロードを通過。車もオートバイも通行禁止なので気持ち良く走ることができます。


あとは武庫川CRを軽く流して帰宅。

今日の走行距離【31.17】Km

・曇天・低気圧に弱いわたくし、今週末は走るモチベーションが思いっきり低下しました・・・。来週は金曜は友人と山歩きの予定だし、その余勢で週末はもうすこし走ることができそうですが。
・ジャパンカップの番組、録画していたので何度も見ている。一流のアスリートの走りはやはり美しい。そういえば
茄子 スーツケースの渡り鳥
もジャパンカップが舞台でしたね。宇都宮森林公園のコースと重なることにいま気づきました。

秋深し・・・2008-11-13 00:40

関西地方は見事な秋晴れの一日。ビルの隙間から、青空と紅葉が目立ってきた六甲山系を眺めながら、「こんな日、ロードバイクで走ったらキモチいいだろうなぁ」と吐息。でも仕事のポイントの時には休まないのがサラリーマンの鉄則ですからね。

■マニア本?
廃道本(ブルーガイド・ムック) (ブルーガイド・ムック)
ここまで来るとロードバイクでは探索は難しい。

そこにシワがあるから──エクストリーム・アイロニング奮闘記
バカバカしいと思っていたが、突き詰めると全てのものは素晴らしく美しい・・・。Netでもコラムが連載されているが、兵庫遠征の記事は地元だけに「そうそう、その地形だよな。おおっ、あそこでアイロンしたのか」と臨場感たっぷりに読ませて頂いた。

■秋深し
人は、人と近しくなりすぎて苦しみ、遠くなってしまって哀しむ。そんなことを思いながら「文藝 特集柴崎友香 ロングインタビュー」を読む。
文藝 2008年 11月号 [雑誌]

柴崎さんはロングインタビューの中でこう語る。
「私が小説で描きたいことの根底には『きょうのできごと』にあるような「人の気持ちは分からない」という思いがずっとあるんですね。分からないからこそ分かりたくてコミュニケーションする、分からなくて当然だからちょっと分かったかもしれない時に嬉しい。もともと分からないものだって思うから、「なんで分からないの?」という気持ちはそんなにないんですよ。他のことや世界に対しても、たぶんそんな感じでいるから、そこで絶望の方向にはいかないのかもしれない。」(同書109頁)

村上春樹、瀬尾まいこ、森見登美彦、南木佳士と一見作風も文体も異なる小説を好んで読むのは、コミュニケーションの立ち位置に共通するものがあるかもしれない。


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