長谷川恒男と「下山の思想」2009-05-13 07:24

生きぬくことは冒険だよ
を読了。

アルピニストのように激しい登山をする能力も体力も私にはない。だがアルピニストが極限の冬山で自然と対峙した時、彼らはどのように振る舞うのか、どのように考えるのかには興味がある。

極限の冬山で彼は幻聴と闘う。

ー(山で遭難した友人)そういう友だちが、私の行く先々についてきて、ツェルトの隣で宴会をはじめる。寒いテラスで震えていると、外は花園ような所に感じられる。すぐそばで楽しげに語り合う声が響き、「長谷川さんも出ておいでよ。いっしょに出ておいでよ。いっしょにお酒を飲もうよ」と誘う。つられて、つい出ていきたくなる。
いや、待てよ。ここはジョラスの北壁だ。だれもいないはずだぞ。」ー
(同書105頁)

荷物の軽量化のため食料を極力減らし、胃を小さくさせ空腹に耐えられるようにもする。
氷壁をザイルで登り、的確なアタックのため再度下降して登り返す。

そして極限状態で心身離脱の現象に入る。

ー自分の体と意識が別々の行動を起こすんです。心と体がバラバラになってしまうんですね。確実に手と足は氷壁を登っているんですよ。でも、空中でもうひとりの自分が自分を見ているような感じになるわけですー(同書166頁)

おそらく長谷川恒男という登山家は優しいとともに単独登攀家特有の激しさをもっていた人なのだろう。友人であったり、先輩であったりすれば「これはかなわんなぁ」という人かもしれない。
だが、常に死を意識しながら生きるというスタイルは、かくのごとく自然と対峙しなければ生まれないのではないか。

ー単独で登攀している時の孤独感を、彼はこう自問します。いま、おまえは本当に孤独なのか。どれだけ多くの理解者の暖かいまなざしに見つめられているのかを知っているのか。」そして、その問いにこう答えます。「けっして孤独ではない。むしろ都会の雑踏のなかにいて、自分自身を理解してくれない人に囲まれているほうがよっぽど孤独なんだ。自己を表現する方法がみつからないほうが、はるかに孤独なんだ」と。ー
(同書242頁)
登攀すれば下山しなければならない。悪天候で登頂をあきらめた時も下山しなければならない。そして下山時の遭難も多い。
長谷川はけして登頂率が高いアルピニストではない。だが、この本を読むと彼は自然と対立しすぎないこと、安全に下山してこそ一流アルピニストであると考えていたようだ。人は登頂したかどうかでしか、ともすれば評価しない。彼は「下山の思想」を次第に身につけていく中で、雪崩に押し流されて滑落死する。60歳を過ぎた彼の「下山の思想」をいま聞きたかったなとも思う。

ところで次男が購読しているトレイルランの雑誌を読むと、
日本山岳耐久レース(長谷川恒男CUP)という大会がある。
長谷川恒男という名前はこういう形で残り続けていくのだろう。
ちなみに次男はこの大会にもいつかはエントリーするそうな。今夏の次男との南アルプス縦走は楽しみです。どんな山が私たちを迎えてくれるだろうか。


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