柔らかな時間ー敬愛するK先輩へ ― 2006-06-26 19:09
ブログの更新を意識的に止めていた。
土曜に敬愛するK先輩が永眠されたからだ。末期ガンで2年間の闘病生活を経ての、ご逝去だった。
プライベイトなコトはこのブログでは書かないのが基本原則だけれど、とても無視してはブログを書き続けることはできないので、K先輩、ご容赦くださいね。
K先輩は、男性でありながら「乙女心」をもつ希有な人だった。
と同時に闘病生活で見せた心の強さ・周りへの心配りは、誤解を恐れずに言えば「寡黙な意志の強い人」だった。
映画「下妻物語」のため4回も映画館に足を運び、伝道者のごとく「下妻物語、あれはイイよ!」と皆に薦めていた。
闘病生活に入ってからも「DVD友の会」を作られて、私たちに対し「偏愛映画」を貸してくださった。DVDのリストには、彼の一口映画評が書かれ、簡潔だが映画に対する愛情・偏愛が伝わってくるものだった。
毎朝、この稚拙なブログを覗いてくれて、定期的にE-Mailで感想をいただいた。
「内田樹さんのブログを読んでいると、あの映画のことを思い出したよ」など、私がお薦めした他のブログもよく読んでいらっしゃった。
K先輩の奥様、娘さん達のご厚意で、土曜に自宅に伺った。ベッドに眠るK先輩は、まるで笑っているかのようなお顔だった。人々に慕われたK先輩のこと、会社でのK先輩、ご自宅での夫として・父としてのK先輩のこと・・・。私たちが知るK先輩と、ご家族が知るK先輩、それらを語り合いながらつなぎあわせていくと、なぜか柔らかな時間を共有しているように感じた。
いつも私も、K先輩も覗いている内田樹教授のブログをふと訪れると、亡くなった人とのコミュニケーションが奇しくも今日、載っている。
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私たちは全員が「潜在的死者」である。
だから、葬送儀礼を生者の側において執り行うときに、私たちは「安らかに死ぬこと」とはどういうことかを先取り的に経験している。
「あなたはまだここにいる」と生者たちから告げられたときに、「私は安らかに死ぬだろう」
そういう信憑を私たちは幼児期から繰り返し刷り込まれている。
この信憑から個人的な決断によって逃れることはできない。
「オレはそんなのやだよ」と言ってもはじまらない。
この信憑が人間の人間性を基礎づけている「原型」だからである。
死者に対して「あなたは生きている」と告げることばは、それが真実な思いからのものであれば、「死者に届く」。
私のこのふるまいは死者を慰めるか?
私のこのことばを死者は嘉納するか?
私からのメッセージは死者に正しく伝わるか?
そのような問いをもって生者たちはその生き方の規矩としている。
死の淵を覗き込んでいる人間に必要なのは、おそらく「死んでもコミュニケーションは継続する」ということへの確信であろう。
数十万年前に人類の始祖たちがこのような信憑を採用して、それを社会制度の基礎に据えたのは、それが万人に例外なく訪れる死を苦痛なく受け容れる上でもっとも効果的であるということを知ったからである。
私はそんなふうに考えている。
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K先輩どうでしょう?「(asyuuくん)じゃあ、このへんで。あとは楽しんでください」と、いつもようにあっさりと話しを打ち切ってお帰りになるのでしょうか(K先輩は、興味のない話題になるといつもこんな風にさわやかに去って行かれた)。でも、「死んでもコミュニケーションは継続する」という内田先生の言葉は、今回は素直に私のなかに入ってきます。
「私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」という誓約(内田樹)。
そう、私たちはK先輩と誓約することによって、K先輩のいない世界をも含めて、同時代を生きていけるのではないかと思っています。そしてご家族からいただいた柔らかな時間を宝物としていきたいと思います。K先輩、笑わないでくださいね。
K先輩が、映画小僧のように目を輝かせながら映画を観ていた映画館で、わたしもひとり映画を観ましょう。
そして、その感想をこのブログにも書いていきます。いつものように定期的にブログを覗いてください。
「トニー滝谷?市川監督はこの小説(村上春樹原作)を壊れやすい宝物のように大事に扱って本当に奇跡みたいな映画に仕上げたという映画評があったよ。
それに同感。でも、静謐すぎて、2回目もすこしうたた寝してしまいました。」といたずらっ子みたいに笑ってください。
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