次男の引っ越しと私が生きた時代(感傷編) ― 2006-06-03 23:28

今日は、次男の引っ越しにつきあう。それほど多くの荷物はないので、赤帽に依頼して引っ越しをする。
彼の新しい住居は、鉄骨造りのマンション。大学通りに面し、日当たりもいい。
実は物件を見たときに、わたし自身がこの部屋を気に入ったので、彼の決意を後押ししたようなものだ。
変形(台形)の部屋だが、フローリング張りでトイレ・風呂も清潔。大学に通う学生通りに面しているので、活気があるし、コンビニ・飲食店も多い。若いときは、どちらかというと雑然とした環境の中で生きた方がよいのではないかと思う。
私は、18歳まで高知で過ごし、そして関西に出てきた。高知の自然を愛しているが、街の魅力もスキだ。
18歳までに自分が育った家庭は、けして居心地のよい家ではなかった。計画性のない父と嫉妬深く陰鬱な母。
高校を卒業してさっさと家を逃げ出し、まず新聞配達店に住み込みで勤めた。新聞広告で見た大阪近郊の新聞配達店に住み込みで働いた。当時は、いまほど新聞休刊日はなく、朝4時起床。200軒ほど新聞を配達する。坂の多い町で、エレベータのないマンションでは狭い階段をひたすら上り下りする。7時頃に配達が終了し、皆で食事。
夕刊は4時頃から配達し、それが終わると翌日の折り込みチラシのセット作業。折り込みチラシを手作業で、ひとつにセットして朝刊に差し込みやすくするのだ。現在は、折り込みチラシを機械処理できるようだが。
新聞配達店のご主人は30代前半だったろうか。奥さんが私たちの朝食・夕食を作ってくれる。余談だが、確か、作家の田口ランディさんは若い頃、新聞配達店に住み込み、食事の担当をしていたはずだ。
昼間は、店が用意してくれた文化住宅の一室でひたすら本を読んだり、雑文を書いていた。
ふと思い出した。新聞配達をしている一軒に豪邸があった。ある日、その家のおじいちゃんが新聞配達する私を玄関先で待っているのだ。おじいちゃんは、おそらく会社経営を息子に譲り隠居生活をしているような雰囲気。私が新聞を手渡すと、彼がそっと小袋を私に手渡す。中を見ると、小遣い程度の金銭が入っている。彼は、「私も若い頃は、とても苦労したんだ。君も頑張りなさい」と私に話しかける。もう70代後半だろうか、小柄な好々爺のような彼を見ていると、私が苦労していると言われるのが不思議だった。私には、若さがあり、根拠のない自信があり、そして将来とはあまりにも漠としていた故に、不安感があまりなかったのだ。
彼からのこころざしをいただいて、配達店の主人に話すと、「うん、あそこのおじいちゃんは若い人が配達に行くといつもそうしてくれるらしい。若い頃、苦労されたんだろうね。」とのこと。
その後、私はフリーターのような生活をやめ、新聞配達店で貯めたお金をもとに、予備校に通った。予備校の学費や生活費をその貯金でまかなった。進学した大学は国立大学だったので、当時の学費は年間36.000円(月額3000円!)。確か私立大学の学費は、年間2〜30万の時代だったと思う。大学進学後も、狭いアパートに住んでいた。風呂はなく、共同トイレ。日本育英会の奨学金とアルバイトで稼いだお金で生活をしていた。いろんなアルバイトをしたけど、唯一しなかったのは水商売だけかな。
現在、私立大学の法学部に在籍している息子たちの年間の学費は二人合わせて200万円ほど。
お金の多寡ではなく、彼らには彼らの流儀で大学生活を送ってもらいたいと思う。所詮、生きた時代、生きている社会が違うのだから。そのためには「甘い親」という立場を甘受するのもよいのではないか。
それにしても、次男の部屋のような環境で学生生活を送ったら、もうすこし違う人生があったかなと、ふと夢想する。まぁ、私はいまの私になったんだろうけど・・・。
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